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カルトとマインドコントロール・基礎編


そもそもマインド・コントロールとは何でしょうか。
「マインド・コントロールの恐怖」では、『個人が自己自身の決定を行う時の人格的統合性を切り崩そうとするシステム。その本質は依存心と集団(あるいは特定の個人)への順応を助長し、自律と個性を失わせることである』と定義され、カルト内の強力な教え込み効果によって作用するとされています。
普通は物理的虐待を伴うやり方を洗脳と呼んで区別します。
手段として、拷問や薬品が使われるなら洗脳、催眠や暗示が使われるならマインド・コントロールと呼ばれるのでしょうが、両方の手法を併せて用いるカルトも存在します。

カルトの主要なタイプとしては、宗教カルト、政治カルト、心理療法・教育カルト(自己開発セミナー等)、商業カルト(ネズミ講式の販売組織等)が「マインド・コントロールの恐怖」では挙げられており、
マインドコントロールの手法を悪用して、個人の権利と自由を侵害し、傷付ける事が共通点です。
ここでは宗教カルトについての記述を引用してみましょう。

>この集団は、宗教教義に焦点をあてる。
>あるものは聖書を、あるものは東洋の宗教をベースにする。
>あるものはオカルト伝説を使う。純粋に指導者が発明したカルトもある。
>彼等はほとんどみな、自分達の教えは精神的領域に関するものだと主張している。
>だが、指導者たちのぜいたくな暮らしぶりや何百万ドルもの不動産、広範な関連企業等々、
>彼等が実際に「物質」世界にどれだけ強調点を置いているかを調べれば、その本当の色合いはすぐわかる。

カルトの規模によっては、まだあまり経済力を持っていない場合もあるでしょうし、信者には教祖や幹部達の実際の暮らしぶりは歪曲して伝えられている場合が大半でしょうが、それでも多くの場合に当てはまる説明だと思います。
この短い解説からだけでも明らかなように、カルトとは乱暴な言い方をするなら、嘘を本当だと信じさせる組織です。
心を救うと言っておいて返って傷付け、儲からないものを儲かると言い、出来ない事を出来ると言う。
そして教え通りにならないのは、あなたに原因があるからだと責め、けして組織や指導者の責任を認めようとしません。

こんな主張をまっとうなやり方で訴えても、恐らく誰にも相手にされないでしょう。
だからこそ、人々を惹き付け、あるいは内部に引き留める為には、必然的にマインドコントロールや洗脳の手法が必要なのです。
外部から見れば当たり前の事が、何故内部からは分からないのか――カルトの問題を考える時、誰しも最初にぶつかる疑問でしょう。
マインドコントロールが用いられないならば、内部の者にも、問題は容易に理解出来ます。
嘘やでたらめと承知で、始めから信じ込む人間はいません。

さらに言うなら、カルトの主張と実際の行動の矛盾は、大抵取り繕いようのないレベルです。
ですから悪質なマインド・コントロールの本質は、批判の矛先をそらす事にあるのではなく、批判精神そのものを摘み取る事にあります。
ただ嘘を信じさせるだけなら、嘘が判明した時に相手は席を立ってしまうでしょう。
ですから、教育や流行や世の中の常識といった事を例に取り、「所詮世の中の全てはマインドコントロール」などと言って、そこにカルトの問題を埋没させるのは間違っています。

端的に言って、カルトのマインドコントロールは人間の自由意思を奪い、組織のためのロボットにしてしまいます。
ですからマインド・コントロールを解くというのは、理屈や論理で言い負かす事ではなく、むしろマインド・コントロールに押し込められたその人本来の精神――本当は感じていたはずの、組織や指導者への疑問や不満などを、解き放つ事を指します。

仮に世界征服をもくろみ人類抹殺を主張する組織があったとして、それをごまかし無く本音通りに主張して賛同者が集うなら、通俗的社会常識的には悪の組織であっても、それはここで問題にしているカルトではありません。
しかし、例えば普段盛んに世界平和を唱えている組織が、戦争に賛成する決議に参加しても支持者が動揺せずに組織を支持し続けるなら、それはカルトと呼べる可能性があります。
その選択自体の善悪より、いかなる組織の選択や方針にも批判無く従う従順さが、悪質なマインド・コントロールの特徴です。

「なぜカルト宗教は生まれるのか」でも指摘されている通り、カルト問題は先進国病のひとつと言えます。
この事とマインド・コントロールの問題を理解せずに、「宗教にはそもそもそういう側面があって…」などと安易な常識論に逃げるのは、間違っているばかりではなく、カルト問題を助長させる考え方です。
オウム事件の時も、一部有識者のこういった発言が、問題に対する一般の理解を妨げました。
カルト問題に詳しい宗教学者の浅見定雄博士は、この点を実に簡潔に論破しています。

『宗教であろうとなかろうと、悪い事は単純に悪い』

…まさにその通りです。

悪質な汚職で捕まった政治家が、「俺ほど悪質じゃなくても、似たようなやり方で汚職している政治家はたくさんいる」と主張したとします。
その通りだと納得して、一切の汚職を取り締まる事をやめたら、世の中はどうなるでしょうか。
無知と知ったかぶりでカルト問題を一般の宗教議論に埋没させる人は、マインド・コントロールについて知らないのは仕方ないにしても、上記のような単純な理屈さえ判っていないのです。

とは言え、迷信が信じられていた古代ならともかく、科学や合理的主張が支配する現代、しかも教育が充実し、TVやインターネットが普及した先進国の方がカルト問題が深刻というのは、納得しがたいのも事実でしょう。
この事を、ちょっと別の視点から見てみましょう。

サイババと言うインドの聖者が、日本でも話題になった事があります。
彼のような場合、基本的に世間一般の関心は、『その超能力が本物かどうか』でしょう。
本物なら神の使い、ニセ者なら詐欺師、こう考えて当たり前だと思ってはいないでしょうか。

実は、これは当たり前の考え方ではありません。
サイババの元信者には、彼の超能力は本物だったと主張している人達がいます。
その上で、彼の言動や行動が納得出来ない、尊敬出来ないから信者をやめた人達がいるのです。

昔の神道の神降ろしの儀式には、審神者(さにわ)と呼ばれる人達がいました。
降りてきた神様が本物かどうか判定する、つまり神を裁く役目です。
キリストは荒野で悪魔の試練を受けましたし、釈迦は瞑想を妨げる悪魔の誘惑を受けたと言われています。
原始仏典においても、様々な祈祷やまじないの効果は否定されていません。 ただ、それらは真理ではないとはされますが。

問題なのは、神の降臨や、悪魔の試練だの誘惑や、まじないの効果が本当かどうかではありません。
そうではなく、かつて迷信を信じていた社会では、それらを信じるが故に、果たしてそれらの超常現象が『本当に正しい存在によってもたらされたのか』を『疑う』知恵もあったと言う事です。

科学的思考が迷信を駆逐すると、超常現象は『起きる』か『起きない』かの単純な二元論に支配されます。
超常現象が『起きた』と思えば、それを即、現代のあらゆる価値観を超克する真理だと思い込み、かつての先人達のような「これをもたらしているのは神なのか悪魔なのか?」といった疑いからは無縁です。

そもそも、TVの仕組みを理解してTVを観ている人、コンピューターの仕組みやそれを動かすプログラムを理解してインターネットを楽しんでいる人など、めったにいません。
それでいて、そうした文明の恩恵を受けて自分達は何かを理解したつもりになっている、思い上がった無垢な赤子が私たちです。
手品を手品と見抜けないのは仕方ないにしても、超能力があろうと奇跡が起きようと、そんな事は相手が正しいがどうかとは関係ないと言う当たり前の常識さえ、失くしてしまったと言うのに。

迷信と一緒に、そういった迷信と上手く付き合うために、長年の試行錯誤を経て培われた知恵も捨ててしまった先進国の国民だから、手垢まみれの宗教議論も斬新で輝いて見える。
それは、過去の財産が途絶した環境に私たちがいるからです。
そういった免疫のないままに、あらゆる事に対する選択の自由だけは、過去に比べてたっぷりと与えられています。

人間の知的能力や判断力には、おのずから限りがあります。
だから、今まで考えずに済んでいた事を、急に自分で判断しろと言われると、パニックになる。
旧社会主義国の自由化で、人々が職業選択の自由や、レストランでメニューを選ぶ自由にさえ戸惑ったのは、よく知られているでしょう。
マインド・コントロールでそういった自由を奪う代わりに、自由に伴う責任も悩みも感じずにさせてくれるのがカルトです。
だから救われたと感じる、居心地が良いのも本当です。外の世界の方が辛いと言うのは、ある意味真実ですから。

そうして自分が組織のロボットになれば、自分の子供や身内もそうなるのが当たり前、幸せだと考えて、あらゆる事を押し付けてくる。
家の宗教をただ継いでいれば済む伝統社会では、実はカルト宗教の家に生まれた二世三世のような問題は起こりません。
現代でも、普通に家の仏壇を守っている伝統宗教の家庭で、子供がそれに苦しむなど、あまり考えられない事です。
こういう場合、禅宗の家庭だの浄土宗のウチに生まれただのは、日本人に生まれたとか黄色人種に生まれたといった事と、あまり大差はありません。
宗教の事など、葬式や法事の時に意識するのがせいぜいでしょう。
カルトを信じる親や身内を持つから、悩みの種になるのです。

カルトの問題を、宗教に関するありきたりの常識論に転嫁するのがいかに的外れか、いささかなりとも伝わればと腐心しましたが、いかがでしょうか?


かつて、頭蓋計測学という学問がありました。
脳の大きさから知性の優劣が分かると考え、頭蓋骨の容量から人の知性を計量しようとしたのです。
ある優秀な教授が、死後に自分の頭蓋骨を計測して欲しいと望みました。
死後にその希望は果たされ、結果その教授の脳は普通の人より小さかった事が分かりました。
さて、どうなったでしょう?

誰も頭蓋計測学の方は疑いませんでした。
その教授は脳が小さかったのだからバカだったのだとされました。
教授の生前の功績や優れた論文には、誰も目を留めずに。

現代から見ればとんだ笑い話ですが、これは19世紀の実話です。
この頭蓋計測学を熱心に提唱したブロカは、著名な脳生理学者として「ブロカの言語野」にその名を残しています。

これは、教えが「こうなるはずだ」と命じるものと、現実の間にギャップがあった場合、人が現実を見ずに教えを取った例のひとつです。
この原因はどこにあるのか?
頭蓋計測学が、男>女>黒人といった当時の差別を、なんとか科学的に補強しようとするのに利用されていたからでしょう。
今日のカルトが、歪んだエリート意識に浸るためにマインドコントロールを利用する理由が、よく分かります。

『カルトというのは嘘を本当だと信じさせる』と私は指摘しましたが、しかし必ずしも悪い目的からそれが始まるわけではありません。
むしろ高い理想から始まって、その理想と現実の差が埋まらないから、マインドコントロールが用いられる場合もあります。
簡単に言うと、「正しい事をしてるはずなのに、何故上手くいかないのか」と言うギャップです。

当たり前の話ですが、世の中は正しいから成功するというものではありません。
人類の歴史を見れば、分かりきった話です。
しかし正しい行いは正しい結果を生むと考えれば、結果が間違っていればそれは正しくない行いだった事になります。
だからカルトの信者たちは、相手が自分達と同じ組織に属していようがいまいが、やれ正しい信仰ではなかったの信仰が足りなかっただのと、いつも陰口を叩いています。

マインドコントロールの研究は、旧社会主義国で行われた洗脳に対する研究から発展しました。
これも上記の事から考えれば当然でしょう。
社会主義自体は、貧富の差を無くし平等な幸福を目指した理想です。
ですが、世の中は理想通りにはいきません。
しかし、正しい理想のもとに運営される国家の国民は、当然そうでない国家の国民より幸福であるはずだと考えるなら、そこに理想=教義と現実のギャップが生まれます。
本当はそうでないものを『そうだ』と言わせるために何が必要か、もうお分かりだと思います。
この類いのカルトの例としては、ジョーンズタウンの大虐殺で有名な、人民寺院のジム・ジョーンズが挙げられるでしょう。
「マインド・コントロールの恐怖」によれば、彼は長い間貧しい人々を援助した経歴を持つ、正規の牧師だったようです。
しかし彼は、もっと長時間働いて多くの救済活動が出来るようにと覚醒剤を使い始め、その救済活動に信徒たちを駆り立てるために、様々なテクニックを用いるようになりました。
その行き着いた所は、1978年11月18日、死者900人以上の惨事となったジョーンズタウンの大虐殺でした。

真面目で善良な信仰者が、改善のために組織に残ると言った時、それがカルトであった場合は危険だと思います。
安易な応援は、首を吊ろうとしている人の足をひっぱる事になりかねません。

カルトから離れた休養と、嘘のない思いやりが、いつでも最善の処方でしょう。
安易な常識論で相手を割り切ろうとせず、話をよく聞いた上で、相手の事情や立場を思いやる、現実的な助言が一番だと思います。

当たり前の話ですが、人間には出来る事と出来ない事があります。
いかなる困難な願いも、本人次第で必ず叶うというのは、カルトがよく用いる詭弁です。
当のカルト問題と同じく、現実の社会問題は、どれも一朝一夕には解決しない事ばかりです。

カルトから救済したい相手への理解のために、自分もそのカルトに入ってみようかと試みる事も、大変危険でしょう。
カルトの外にあってこそ、相手と現実世界との架け橋になれるのであって、 あなた自身が助けたい相手と同じ悩みを抱えてしまっては、相手を助けるどころではありません。

それが優越感からにしろ罪悪感からにしろ、あまり自分自身を過大評価するべきではありません。
「嫌だ」と思ったり「辛い」と感じる事を、ネガティブだと否定せずに、心の悲鳴だと思って耳を傾けましょう。
多くの人が――「マインド・コントロールの恐怖」の著者スティーヴン・ハッサンも――指摘しているように、間違いを信仰によって真実に変える事は出来ないのです。



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