
先日、2chのカルト問題を扱っているスレを覗いていたら、何故かスーザン・ブラックモアの話題が出ていました。
進化論学者のリチャード・ドーキンスが提唱したミームと言う概念から、人間の文化や意識といった問題も説明出来ると言う内容の本を出した方です。
そこではスレ違いの内容にも見られましたが、まったく関係ないとも言い切れません。
ドーキンスは、ユニバーサル・ダーウィニズムを提唱し、この宇宙のどこにどのような生命が誕生したとしても、遺伝子のような仕組みを用いて進化するはずだと主張しています。
ダーウィンの進化論は、その発表から現在に至るまで、多くの誤解に晒されてきました。
ドーキンスの著書「ブラインド・ウォッチメーカー」即ち盲目の時計職人とは、神というデザイナー無しでも精緻で多様な生命は誕生し得る事を示すタイトルですが、これは『進化には目的も方向もない』という進化論最大の主張を、ドーキンスがよく理解しているからだと思います。
ダーウィンが、その晩年にミミズの観察からたどり着いた一種の知覚理論は、後の時代、現在の認知
科学に多大な影響を与えているジェームズ・ギブソンの提唱したアフォーダンスを観察したものでした。
アフォーダンスとは、英語の動詞「afford(与える、提供する)」からギブソンが考え出した造語です。
佐々木正人著「知性はどこに生まれるか〜ダーウィンとアフォーダンス〜」によれば、アフォーダンスとは「環境が動物に提供するもの、用意したり備えたりするもの」であり、それは私たちを取り囲む環境に潜んでいる意味だと言います。
ギブソンはエコロジカル・リアリズム(生態学的実存主義)という考えを提唱しました。
生き物の行為は、それを取り巻く環境の中に実在するのであって、行為を環境から切り離してその意味を考えても理解できないというものです。
このサイトにある「簡略仏教史」も、釈迦の行いや言葉を、釈迦が見ていた当時の社会から切り離して考えても理解は出来ないという意味で、エコロジカル・リアリズムに従ったものです。
行為を環境から切り離して名前を与えても、その意味を理解する事は出来ません。
経典の意味や違いだけから論じて
も、釈迦の本意は中々解らないでしょう。
たとえばキリスト教の場合も、テモテへの手紙1・2章11‐15節にある、女は教会では発言せず家にいて子供を産めば救われるなどと言う言葉は、男女や人種の平等をうたったキリスト教の主張が当時としては過激すぎたため、誤解や軋轢を避けるため為されたものでした。
それを知らず上の言葉だけを取り出せば、キリスト教も男女差別の宗教に早変わりです。
教典から言葉の一部を切り離し、曲解して正当な解釈だと強弁する――こんな事を、カルト宗教はよくやっています。
ギブソンとは異なる道具立てで同じ事を主張した人に、グレゴリー・ベイトソンがいます。
彼の研究をその根底のひとつに、リード・バンドラーとジョン・グラインダーが開発したNLP(Neuro-Linguistic Programing、神経言語プログラミング)は、心理学や催眠術のテクニックを大衆化させました。
カルト問題を扱った名著「マインド・コントロールの恐怖」によれば、作者のスティーブン・ハッサンは、強制的でないカルトからの救済方法を模索した時期にNLPに出会
い、マインドコントロールの技術とそれへの対策を学んだ後、NLPの運動の倫理性に疑問を持ってグラインダーとの関係を打ち切り、ベイトソンらの研究を学び始めています。
さて、普段心理学や認知科学にも、またカルトやマインドコントロールの問題にもあまり関心がない方は、聞き慣れない名前や言葉の多くに戸惑われたかも知れません。
あるいは、多くの学者達の様々な研究という行為が、世界という環境の中で絡み合い生きている事に驚かれたでしょうか。
ミシェル・フーコーは、図書館は火につつまれていると表現しました。
一冊の本をただ読む時、そこから読み取れるのは、あるいは環境から切り離されたただの意味でしょう。
しかし、それが書かれた背景と、そこに連なる生きた人間たちに思いを馳せる時、意味は環境の中に実在する生きた行為となって蘇ります。
紙に書かれた文字という静的なものを、火と表現したフーコーの真意は、このあたりにあるのだと思います。
これは、実はロマンティックな意味ではなくて、その反対です。
冒頭引用したドーキンスの例
で言えば、進化論学者には排他的で論争好きな傾向が見られると言います。
科学の理論は、一般に個性的であるだけでなく、シンプルかつ汎用性の高いものが評価されるため、進化論学者の場合は、自分の理論をよく他の分野に拡張したがります。
そこから上記のような傾向が生まれるのでしょう。
私は、「利己的な遺伝子」を読んで、人生観に影響される程感銘を受ける人たちがいるのが、今一つ理解出来ません。
もしかしてそういう人たちは、今まであまり科学に関心がなくて、TVドラマの影響で流行った事をきっかけに、初めてこの類いの本を読んだから、必要以上にびっくりしたんじゃないんでしょうか。
ある映画を観て、初めて観た人は演出の斬新さに驚いても、その監督の古いファンは、良い点は誉めつつも冷静に批評する…そういう場合と同じだと思います。
カルトの場合も、この未知に対する驚きはよく利用します。
聞き慣れない言葉や内部でのみ通用する専門用語、ちょっとその分野を聞きかじっていれば常識な知識を用いて、その事に気付いているのがさも少数――つまりカル
トの構成員と今勧誘されようとしている被害者――のように眩惑します。
だからカルトの構成員の多くは、自分たちの教義を当たり前に解りやすく、普通の言葉で語るのが苦手です。
せっかくごまかして着飾った教えが、普通の言葉に直す事で色褪せてしまうからです。
単純に説明する場合も、その奥に何か精緻で計り難い真理が潜んでいるかのように振る舞います。
人間は、一度未知への驚きにとらわれると、それがありふれたものだとは思いたがりません。
そこにつけ込んで、そのカルトに属していない他者に対する優越が教え込まれます。
強制的であれ平和的対話であれ、他者はいつかそのカルトを理解し、そしてカルトに加わるべき存在でしかないのです。
カルトの構成員にとって、やがて現実は世界から切り離されてその意味を失い、教義がそれにとって代わります。
と言うと、さも身近には有り得ない恐ろしい事のようですが、私たちも何か新しい驚きを、本か何かから仕入れた時は、勇んで身の周りの事をそれに当てはめて考えてみたりするでしょう。
この時、環境に現存する行為は、本から切り取られた意味にとって代わられています。
普通、こういった興奮は自然と醒めていきますが、カルトはマインドコントロールによってこれを持続させます。
しかし結局は、私たちが普通によくやってしまう振る舞いを、拡張し歪曲して利用しているのです。そしてそれ故に効果的です。
人は普通、自分は無知だと思いたくないし、思われたくありません。
差別の問題は、実はここに根ざしています。
あまり知られていない知識をふりかざして、ある集団を批判する。
その情報は、真実の場合もあれば捏造の場合もありますが、聞かされた方はその情報を集団全体に当てはめる。
この時、情報という意味は、その集団に生きている人間ひとりひ
とりの振る舞いという現実に、とって代わっています。
それが一定数を越えれば、それはその時代の多数が備えるべき教養――つまり『常識』となって、反論を許さない圧力と化します。
韓国の世論調査で、実際に日本の支配を受けた世代より、それより下の世代の方が日本への偏見が強い事実、
ネットでの情報のみを元に、韓国に対する悪意を抱く日本人が増えた事実は、これを証明しているでしょう。
体験した事からくる偏見より、教え込まれた偏見の方が根深いのです。
この事は、カルト組織の中で何が起きているかを考えるヒントと同時に、カルト組織がもたらす迷惑に対する批判と、構成員ひとりひとりに対する批判を冷静に峻別する必要を、私たちに教えてくれています。
ここに示した考えは、カルトとマインドコントロールの問題を考える手掛りの、ほんの一部であり一例に過ぎません。
私はここまで特定の団体名は挙げずに述べてきましたが、にも関わらず自分の所属する団体を批判されているように感じた方や、特定の団体が頭に浮かんだ方は、その団体に対して注意が必要で
しょう。
実際、当てはまる団体はひとつではないはずです。
何より、「もしかして自分もカルトに騙される可能性があるのか?」と心配になった方もおられるでしょう。
大丈夫、大抵の方はその可能性があると言いますから、別に特別な事ではありません。
世の中の99%の人は、私同様たいして賢くも物知りでも無いのだから、自分が世の中の圧倒的多数に属している事を、恥じる事はないと思います。
私と一緒に胸を張って、自分が無知で善良な一市民である事を誇りましょう。
最後に、自分はしっかりしてるから大丈夫だと思った方…本当にそうですか?
カルトについてはともかくとして、私が引用した認知科学や進化論の話は、ご存じない事が多くありませんでしたか?
感心する前に、私の説明が本当に正しいか調べましょう。それがカルトに対する予防策のひとつだと思います。
世の中に、分かりやすい説明で割り切れる事実など、本当は何ひとつありません。
だからこそ、火につつまれた図書館の冒険は面白いのです。
そして、何か真理を手に入れて解った気分になるより、相手が自分と同じ生きた人間である尊重と敬意の方が、ずっと大切だろうと思います。