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【宗教は『独善的』に『布教』するのが本来の姿?】


カルトの批判をしてると、カルト側から必ず返ってくる反論がいくつかあるのですが、その中にタイトルのようなものがあります。
つまりは、宗教ってそういうものでしょう、自分達は宗教やってるんだから仕方ない、そんな開き直りですね。

万引きや援助交際を見つかって、「だってみんなやってるらしいし…」と言い訳するようなもので、実にみっともない言い分です。
「男は本来浮気するもんだよ」と開き直られて、許してくれる奥さんがいたら、かなり貴重な気がします。(笑)

いやしくも宗教を語るなら、思考を放棄して泣き言を言う前に、相手の苦しみや訴えに耳を傾けるべきです。
従って、上のような言い訳は取り合う必要もないのですが、宗教学者や宗教に関する本の執筆者の中にも、
ろくろく考えもせずに無知な事を書く方がいますので、一応この点を解説してみようと思います。
初歩的な宗教の解説書にも載ってるような事で、書くのはホントは恥ずかしいんですが。

まずは自宗の場合から。
浄土真宗の場合、歎異抄に以下のようにあります。

『…法論を企てて、わが宗こそ優れたれ、ひとの宗は劣りなりと言うほどに、法敵も出できたり謗法も起こる。
 これしかしながら、自らわが法を破謗するにあらずや。
 例え諸門こぞりて、念仏は甲斐なき人のためなり、その宗浅し卑しと言うとも、さらに争わずして、
 われらがごとく下根の凡夫、一文不通の者の、信ずれば助かるよし、承りて信じ候へば、
 さらに上根の人のためには卑しくとも、われらがためには最上の法にてまします。
 例え自余の教法は優れたりとも、自らがためには、器量及ばざればつとめがたし、
 われもひとも生死を離れんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御妨げあるべからずとて、
 憎ひ気せずば、誰の人かありて仇をなすべきや』

ご立派なお人のためには優れた理想でも、私にはつとめられませんので念仏しております。
そう申し上げて憎らしい態度を取らなければ、相手もこちらを傷付けたりはしないでしょう。
そんな意味ですが、確かにそうですね。それでもカルトの人は絡んでくるので困りますが。(笑)

この歎異抄の記述は、法然が大原問答で主張したと伝えられる内容と同一なので、他力浄土門の本意と取って間違い無いでしょう。
相手を見下すのではなく、自己の罪悪を自覚する事に救いがあるのが、浄土門本来の教えです。
そうして、生まれつきのままの救いを願って念仏します。

こう言うと、そういう宗教は一部で、宗教本来の姿ではないと反論する人がいます。
本当に一部かどうか、他の例を見てみましょう。
イスラム教なんてどうでしょうね。「剣かコーランか」なんて言葉は、過激でぴったりです。

しかし、実はこの言葉は、イスラムのイメージを悪くするために、昔キリスト教徒によって作られた言葉です。
昔のキリスト教徒はイスラム教を憎んでいましたが、イスラムの側はユダヤ教やキリスト教を、同じ聖書を奉じる『啓典の民』として、兄弟の宗教と考えてきました。

イスラム本来の教えからは、宗教の強制は間違いです。
だから昔も、『人頭税(ジズヤ)』さえ払えば、イスラム圏でキリスト教を信じる自由はちゃんとありました。
税を課したのは、イスラムでない者にイスラムに基づく貢献は強制出来ないからです。
だから税を課さないと、イスラム圏で他宗を信じる方が得になって不公平――こういう考え方のようですね。

ユダヤ教もヒンドゥー教も、信者を増やそうとして布教する事はほとんどありません。
困りましたね、世界宗教の中で『宗教ってそういうもの』に当てはまるのは、どうも少数派みたいです。

しかしキリスト教があるじゃないか――確かにそうです。
カトリックは魔女狩りもやりましたし、十字軍の遠征も行いました。熱心に海外にも布教に出かけましたし、そこでは強制的な改宗もしました。

で…実はそんな昔のカトリックは、聖書それ自体あまり教えなかったってご存じですか。
いや、だって聖書だのキリストの福音だのをちゃんと教えたら、↑こういう事するのに都合の悪い内容がいっぱいですもん。(笑)

かわりに、複雑な神学が発展しました。
そういう難しい事が分からなければ、ただ信ぜよと説かれます。
聖書をではなく、教会の考えを。
そして頂点に立つ法王は、地上における神の代行者とされ、批判は許されず、政治と結び付いて権力を得る。
…何か、そのままどこかのカルトに当てはまりそうです。(笑)

さて、確かにかつてのカトリックは「宗教ってそういうもの」に当てはまります。
しかし、これは『宗教本来の姿』ですか?それとも『堕落した宗教の姿』ですか?

法王から派遣された司祭が、和平のためにフセインと会う。カトリックとプロテスタントが、共同で聖書を訳す。
そんな姿の方が、より本来のキリスト教だと思いますが、カルトはそんな穏和さを、形骸化と呼んで嫌悪します。
かつてのカトリックや、法主が門徒の生殺与奪を一手に握った戦国時代の本願寺の姿の方が、間違っているのだと私は思います。

悪事を成すのが、カルトの宗教者だけと言っているのではありませんよ。
今日、寺院運営のためになりふりかまわない僧侶もいれば、セクハラで訴えられる牧師もいます。
それらは批判され、場合によっては法の裁きを受けなくてはなりません。
『宗教だから仕方ない』ではなく、『宗教ならなおさら』です。

まして、組織全体で問題や批判が頻発していたら、宗教云々以前に社会にとって迷惑です。
『正しいから批判も大きい』と詭弁を用いる前に、『間違ってるから迷惑がられる』という、当然の可能性を考えるべきでしょう。
当たり前の道理の分からない人に、宗教を語る資格はありません。

社会主義は宗教ではありません。
日本の軍国主義やナチスも、そういう要素はあったにせよ、宗教と呼べるかは疑問でしょう。
しかし、これらの暴走は、今日の宗教カルトの問題と共通しています。
信仰や思想や主義を他者へと強制する行為に、いかなる言い訳も許されません。

ちなみにカトリックは1958年、ガーナにおける世界伝道会議で、強制的なやり方の海外伝道を公式に撤回しています。
組織としての過ちを認め、改めるのは素晴らしい事です。見習いましょう。




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