
マインド・コントロールに、人間はどうしてこうも囚われてしまうのか。
それをよく説明する考えのひとつに、認知的不協和理論という説があります。
1.人間は自己の意見、態度、知識および価値の間の内部調和、無矛盾性ないし適合性(つまり協和状態)を確立しようと努力する。
2.しかし不調和、矛盾、不適合が生じた時(つまり不協和が存在する時)、そうした状態は心理的に不快であることから、不協和を低減し協和を獲得しようとする動機づけが生じる。
3.さらに人間は、不協和が存在する時それを低減しようと試みるだけではなく、不協和を増大させると思われる状況や情報を、すすんで回避しようとさえする。
――と、↑こんな風に書かれても、何のことやらよく分かりませんね。そこで、分かり易く以下のような状況を考えてみて下さい。
あなたは退屈極まりない作業をさせられ、オマケにその作業が「面白いものである」と、人に説明しなければならない立場になりました。
幸いなのは、この作業には報酬が支払われるという事です。
では、このような立場に立たされた時、報酬が高い場合と安い場合の、どっちが後々、作業を退屈だったと感じないで済むでしょうか?
さぁ、どう思われるでしょうか。ちなみにこれは認知不協和理論の提唱者リアン・フェスティンガーによって、実際に行われた実験です。
実験では、報酬1ドルと報酬20ドルの二つの男子学生のグループに、延々皿の上に物を移し続けるだけ、といった退屈な作業をさせた後、
同じ作業に参加することになっていた女子学生(実はサクラ)に対し、「この作業は大変面白いものなんだ」と説明する事を依頼しました。
しかし終わった後で聞いてみると、20ドル貰った人より1ドルしか貰わなかった人の方が、作業を面白かったと感じていたのです。
どうして、こんな奇妙な結果になったのか――認知不協和理論では以下のように考えます。
まず、ホントはほとんどの人が『退屈、つまらない』と感じています(認知A)。
しかし他人に説明する時には、依頼通り「大変面白かった」と説明してしまいました(認知B)。
認知Aと認知Bの間には矛盾が、つまり不協和が存在します。
さて、問題は報酬です。20ドル貰った方は『まぁお金も貰ったしな』と、嘘をついた事を報酬のせいに出来ます。
つまり「嘘をついた事」それ自体に対しては、内心正直に向き合えます。嘘は報酬のためであって、報酬が認知Aと認知Bを結ぶ理由になります。
しかし、片方のグループは報酬に1ドルしか貰ってません。『たった1ドルのために嘘をついた』事になり、報酬は認知Aと認知Bの不協和を、むしろ増大させてしまいます。
この不協和―――つまり心理的不快感から逃れるには、『いや、実際ホントに面白かったんだよ』と自分自身を納得させる事です。
そしたら、他人に嘘を――それも、たった1ドル貰ったために――ついた事にはなりません。
その代わりに、『自分自身を騙す』事になってしまうんです。
『だってホントにすごい教えだから』
『幸せになれたし自分を変えてくれたんだよ』
『強引に見えるかもしれないけど、相手のために勧めてるだけ』
――ホントに本気でそうなんでしょうか?
あるいは、最初は本当かもしれません。けれどいつの間にか当初の純粋さはすりかわってしまい、
もうホントの所は組織の締め付けが厳しくて、だから目先の成果を上げて、自分がちょっとだけ楽になりたいだけなんじゃないでしょうか?
でも、それを認めて自分に正直になるには、あまりに得られる代償が少ないですよね。
だから『本当に素晴らしい組織なんだ』と、思い続けてマラソンするしかないんです。
フェスティンガー氏は、カルトについても「預言が外れる時」という本を書いています。アメリカ・ウィスコンシン州にあったUFOカルトについての内容です。
教祖が宇宙人から世界の終わりを予告されたと信じ、洪水が世界を滅ぼす前に、UFOに救い上げて貰おうと山中に夜通し立っていたそうなんですが…。
> 円盤も洪水もなく朝がやってきた(このグループについての数ある皮肉な話のひとつである)。
> そのとき、信者たちはさぞ幻滅し怒ったことだろうと思われるかもしれない。わずかの信者はそうだった――あまり時間や精力を投資しなかった周辺的信者である。
> しかし大部分のメンバーは、前よりもっと確信を深めた。リーダーは、異星人が彼らの忠実な徹夜を見て、この地球を今回は許すことに決めたのだと宣言したのである。
> メンバーたちは、世間の顰蹙を買う劇的な立場をとったあと、かえってますますリーダーにうちこむ結果となったのだ。
これはステイーヴン・ハッサン著/浅見定雄訳「マインド・コントロールの恐怖」(恒友出版)で、本書について説明している箇所からの引用です。
人間は、目の前に起きた事実から素早く原因を探しだし、『これは理屈に合うことだ』と考えて安心したがります。つまり認知的不協和を避ける訳です。
しかし広く世の中を見渡せば、熟慮したつもりで同種の罠に陥っている科学や哲学上の議論さえ多くあります。
こうした人間の普遍的性質の一面は、「帰属エラー」とも名付けられています。
一例を挙げるなら、進化論に対するありがちな誤解がこれに含まれるでしょう。
『進化には目的も方向も無い』と言うのがダーウィンの主張な訳ですが、
現在様々に複雑な生物が存在するという『結果』から、そこに到る『原因』として、生物が何か――例えば人間を目指して進化したように想像してしまう。
その誤解をもって『進化論の理解』だと、勘違いなさる向きすらあると思います。
> 生きものが「何かのために」生きている、などという言い方は、生きものの行為の結果を観察した人間が見たことを表現するために、勝手に後からした説明にすぎない。
> ミミズは地球の表面を変える「ために」生きているわけではない。彼らの生の結果が、大地を変えただけだ。
> 生きものの行為の結果を見て、それが生きものがその行為をする原因であった、つまり行為に目的があるなどと考えるのは、ぼくらがよくしてしまうあやまちである。
> なぜなら、もし生きものに起こる変化が、あらかじめなんらかの方向に傾いていたら、自然がおこなう選択はその創造性をうばわれてしまう。
> 自然がすることは、ぼくら人間が「意図」とか「目的」とよんでいることを越えている。自然に起こる変化は「ただ変わる」とでもいうしかないことだ。だからこそ自然なのだ。
佐々木正人著「知性はどこに生まれるか ダーウィンとアフォーダンス」(講談社現代新書)より
ではマインド・コントロールの及ぼす後遺症には、具体的にどんなものがあるのでしょうか?
「マインド・コントロールの恐怖」で、著者のハッサン氏は「ぐらつき」という状態を紹介しています。
これは『元メンバーが突然「ぐらつき」、グループに入っていた時期に(気持ちが)もどって、
ふたたびカルト時代の人格の枠組みでものごとを考えはじめる体験』だと言います。
> 「ぐらつき」は、もし適切に理解し対応してやらないと、
> 落ち込んで孤独で混乱している元メンバーが、ふたたびカルトへ戻ってしまうきっかけにもなる。
> (中略)… マインド・コントロールが何かを知らない人々にとっては、それは恐ろしい体験となることがある。
> 突如としてカルト時代の精神構造にもどり、グループとリーダー(教祖である場合もあれば、自分の所属する地区のリーダーや
> 自分を勧誘し親身になってくれた方の場合もあります)を裏切ったのだというすさまじい恐怖と罪責感の奔流に襲われる。
> 理性のコントロールを失って、迷信的な考え方をしはじめる。
> つまり、最近世界に起こった出来事や自分に起こった出来事を、カルトの視点(仏罰や自分が神に背いた報い等)から解釈したりするのである。
()内は引用者補足
いささか補足しておきますと、これは恐怖症と連想の組み合わせから生じます。
高所恐怖症などを考えてみれば分かる通り、一度囚われた恐怖症というものには理屈は通じません。
そこが論理的に考えて安全であろうがなかろうが、高い所は怖いから高所恐怖症なのです。
そして恐怖が反射的に思い起こされるようになるまで、
――つまり何かしらの行動をとる前に「罰が当たるんじゃないか?」「神の意思に背くんじゃないか?」と考えたり、
身の回りに起きた事にすぐカルトの教義を当てはめ、現実をその表れだと反射的に解釈してしまうようになるまで――教え込みで刷りこむのがマインド・コントロールです。
そうすると本来の――例えば高所恐怖症などと同じように、無意識に根ざす理屈抜きの恐怖にまで条件付けをする事が出来ます。
当然、その恐怖はカルトの教えによって全て理由や原因付けがなされています。
ですから恐怖に襲われた時、どうしてもカルトから与えられた理由(例えば「神の意思に背いた」「仏罰だ」など)を連想してしまい、恐怖の連鎖反応に陥ってしまう。
人間には、目の前の結果から原因を探しがちな性質――帰属エラーに囚われがちな性質がありますから、
自然と考えはカルトの教義の範囲へと狭まっていきます――そこには目の前の恐怖を説明する、最も分かりやすい理由が用意されているのですから。
つまりカルトの言う様々な『罰』とやらが本当か否かより、そこへ自然に連想を持っていくよう仕向ける事が、マインド・コントロールの巧みさであり怖さです。
そして適切な助言無しにこれを乗り越えるのは、大抵の場合非常に困難だと言えます。
この理由をよく説明できる概念のひとつに、心理学で言う「アイロニカル・プロセス」があります。
> アイロニカル・プロセスは、自分の考えを意識的にコントロールしようとした時に起きる。たとえば、特定のもの(たとえば、「シロクマ」)について絶対に考えないようにしたときなどがそれである。
> するとまず、それを積極的に意識から遠ざける生産的プロセスが生じる。しかし同時に、これより弱いもう一つのプロセスも生じる。これがアイロニカル・プロセスである。
> 生産的プロセスがうまくいったかどうか、つまりシロクマのことを考えていないかどうかを、無意識に確かめようとしてしまうのである。これは、結局のところシロクマのことを考えているのと同じである。
> アイロニカル・プロセスは次第に手に負えなくなり、否応なくシロクマのことを考えてしまうようになる。
ロルフ・デーゲン著/赤根洋子訳「フロイト先生のウソ」(文春文庫)より
ロルフ・デーゲン氏はドイツの科学ジャーナリストで、主に心理学や脳研究の記事を発表していましたが、
本書においては心理学の無能さとその理論の多くの実証性の乏しさ、そして心理療法の効果の疑わしさを痛烈(いささか勇み足なほど)に批判しています。
精神衛生の専門家の助言が、マインド・コントロールに対してしばしば有効性に欠け、それどころかむしろ有害になるケースすらある事は
「マインド・コントロールの恐怖」でも警告されている事ですが、ハッサン氏はマインド・コントロールの後遺症に、以下のような対策を示しています。
> いちばん強力で効果的なテクニックは、誘発の原因を突きとめることである。
> 例えばそれは、ある歌を聞いたせいかもしれないし、グループのメンバーの誰かに似ている人を見たせいかもしれない。
> あるいは、そのカルトのメンバーがするような動作(や唱えごと・発言など)を、自分がしてしまったせいかもしれない。
> 何が誘発の原因だったのかに一度気付けば、今度はその刺激を意図的に呼び出して、
> それから新しい別の連想(へと結び付ける事)を出来るようにする。
> それが新しい熟達した(連鎖)反応になるまで、何度も何度もこれをくりかえす。
()内は引用者補足
ハッサン氏は、カルトの教え込みに繋がるような意味付けから『連想を変えなさい』と助言しています。
『それを自分が満足できる新しい連想へと意図的に組み込むことができるように』して、
その『新しい連想がカルトの条件付けを踏みつけてしまうまで、その連想をくりかえすように』と述べています。
「マインド・コントロールの恐怖」のここだけを読めば、ハッサン氏の提案は稚拙にも見え、「それもマインド・コントロールじゃないか?」と揶揄されてしまうかもしれません。
しかし彼の提案は、解説してきたようなマインド・コントロールの原理と実際の被害を理解した上での、現実的な助言であると思います。
ハッサン氏は以下のようにも述べています。
> もし自分が「ぐらつき」始めたときには、単純に、しかし断固として、
> 「これはたまたま何かの刺激で起こっただけで、すぐに過ぎ去るものだ」と自分に言い聞かせるべきである。
> そして、だれかマインド・コントロールのことを理解してくれる人で、理性的によく話し合える人を見つけるとよい。
> いずれにしても、それは時がたつとともに少なくなるし、またそれをコントロールするテクニックというのも、あるのである。
↑に絡んで相談相手をお選びになる際に留意する点ですが、まず他の宗教への入信や改宗を勧める人は論外です。
宗教自体を全否定し、それを押し付けてくる方も返って気疲れが増すばかりだと思います。
それから宗教ではないにしても、例えばカルトの教え込む歴史認識や社会のあり方を利用して、
それとは対極の視点を押し付けようとする方もよくありません。
それらは、もし本当に興味があれば自らゆっくり学び、これから自分自身の視点を育てていけば良い事です。
云わば精神的な奴隷に疲れ果て、ようやくそこから解放されようとしている方に、
あらたな主人を押し付けるような人はニセモノの助言者です。
もちろん、こうしたマインド・コントロールの問題を理解していなくとも、カルトを辞めたり、その活動から距離を置く人は居ます。
> 自分からカルトをやめられる人々がたしかにおおぜいいる。
> とくに、教え込みの初期の段階ではそうである。(中略)内部の政策や人間的対立の被害を受けてやめる人々もいる。
> たとえば、自分のすぐ上の人物との関係がうまくいかなかったり、その人物に従えなかったりして嫌気がさし、それでやめる人々は多い。
> 長期のメンバーの場合は、グループの方針が公平一律に適用されていないとか、権力争いがあるとか感じたりするときに、やめていくことがある。
…↑は、ある種の方々にはかなり身につまされる内容かもしれませんね。
しかしハッサン氏はそうした辞め方の場合、問題の根本的解決にはならないケースが多い事を指摘しています。
様々なカルトには、相変わらず沢山の人々が居ます。辞めてもまた戻る人も居ます。
あるいは、いつかカルトが改善されるのではと夢を見つつ、内部で活動し、もしくはカルトに戻る為に外部でそれを待っている人々が居ます。
そんな事態を生んでいるのは何故でしょう?
そんなに人間的に問題の多い方々ばかりなのでしょうか(私個人は断じて違うと思います)。
そう思える人が実際そこには多いにしても、組織に都合の良い存在としてそうした人達が生み出されている背景に、何か問題はないのでしょうか。
その問題の根源にマインド・コントロールが根ざしているのなら、まさにそれ故にカルトは問題なのです。
表向きであれ自発的な参加と辞める自由を認める団体なら、
普通は居心地が悪ければ人間は離れていきますから、悪い点は早めに改善していかなければなりません。
それをいつまでも放置出来るのは何故か――別の理由で人々がそこに留まらざるを得ないからです。
『別の理由』がそこで施されるマインド・コントロールにある場合、規模の大小に関わらず、そこは破壊的カルトと呼んで構わないと私は思います。
――カルトのもたらす、こうした困難を体験したからこそ、しみじみと分かる幸せもあると思います。
不自由さを体験した人だけが、自由の素晴らしさを真に満喫出来ると思うのです。
前述のロルフ・デーゲン氏は、ドイツ心理学会から科学出版賞まで贈られていながら、
心理学会を敵に回し心理カウンセラーやセラピストの治療の実証性の乏しさを暴いた書を著した理由を、こう述べました。
「あるイデオロギーに一時期どっぷりと浸かっていた人間のほうが、より完全にそこから自由になれます。
そして、そういう人間が最も激しい批判者となるのです」
ただ、問題を直視し続け、それを解決するまではと自分を抑えて暮らしていれば、むしろ長くその問題に囚われてしまいます。
『楽しさ』こそが、マインド・コントロールに限らずあらゆる悩み事からの回復には、とても大切です。
多くの場合、カルトのマインド・コントロールは効率良く献身を強いるために、個人的な楽しみからあなたを遠ざけようとします。
こうした感覚は内部での活動を通してだけではなく、勧誘や個人的付き合いを通じてカルトと関わるだけでも、ある程度は強化されたり植え付けられてしまいます。
ですから楽しみを探し、罪悪感を振り払って楽しもうとする事も、マインド・コントロールとの立派な闘いなのです。
命がけの覚悟で『つまらない人生』を楽しみましょう。
遊びこそは、常に私たちにとって最高の教師です。