
戻る
このコンテンツは、創価学会に代表される日蓮宗や富士門流系から派生した
カルト宗教の信仰、勧誘や脱会に関して、悩む方達の一助になればと執筆したものです。
本来カルトの問題点というのは、非倫理的な形でマインドコントロールを行う点にあるのであって、
けして元となった特定の宗教宗派が悪いというものではありません。
どんな宗教や思想信条からも、その本来の是非とは無関係に、カルト的な組織は生まれる可能性があると思います。
ただ、脱会や強引な勧誘に伴う議論に関して、こういった知識を必要だと言われる方、
あるいは組織の問題を考える上で、開祖や現在の教祖の神格化(日蓮本仏論や池田本仏論と呼ばれるもの)が
弊害を生んでいると言うご意見がありましたので、その辺りをまとめてみました。
このコンテンツが必要かつ有益であるかについては、実際に悩まれている方のご意見を待ちたいと思いますので、
BBSの方まで宜しくお願いします。
不必要という意見が多いようなら、このコンテンツは削除します。
宗教批判と非倫理的なマインドコントロールを批判するのは、まったく異なります。
その点をよくお含みの上、お読み頂ければと思います。
【簡略仏教史〜日蓮編〜】
日蓮が立正安国論を上梓した当時、日本は末法思想の不安の中にありました。
当時末法思想と結び付いて人々の不安となったものに、中国の古典に由来する「人皇百代説」があります。
人間世界の王朝は、どれほど優れた皇帝が続いても百代で絶えるという考え方です。
日蓮の生年は承久四年二月、普通は貞応元年二月と言われますが、これは承久四年四月に貞応への改元が行われた為です。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府へのクーデターを試みて敗れ、後鳥羽上皇を含む三上皇の配流で終った、承久の乱の翌年でした。
先ほどクーデターと言いましたが、天皇側の武士に対する戦いをクーデターと呼ぶのは、違和感があるかも知れません。
しかし、それは明治以来の天皇集権や、時代劇などから受ける、朱子学によって身分制度が確立された江戸時代のイメージに私たちが幻惑されているからであって、当時の人々は意外に現実的でした。
承久の乱の前年、「愚菅抄」で乱の起きる事を予期し末法を嘆いた慈円は、現実に世の中をきちんと治めている幕府に後鳥羽上皇が乱を起こした事を責めています。
百年以上後代に書かれた「神皇正統記」でも、幕府の功績を評価しそれへの追討は批判されています。
「愚菅抄」が書かれた当時の天皇は八十四代順徳天皇。
慈円は「残り少なくなりにけり」と嘆いていますが、末法思想にしろ人皇百代説にしろ、それは当時の世相と言う現実に対して名付けられたものでした。
だから日蓮も、鎌倉幕府から諫暁を採用されなかったからと言って、ならば朝廷にとは思わなかったのです。
むしろ「日蓮が弟子に京にのぼりぬれば、始めは忘れぬやうにて、後には天魔つきて物にくるう」と京文化を嫌い、「言(ことば)をば但いなかことば(田舎言葉=方言)にてあるべし」と警告しています。
方言と言いましたが、日蓮が生まれた安房や上総の人は気風が荒いと知られていたようで、「人国記」などにも「人の気の尖なること、たとえば刃のごとし。常に頑なにして、人の和する事すくなし。男女ともに死を恐れず」とあります。
むろん、これは当時の気候風土の事情あってのことですが、この通り日蓮は、どこまでも時代の子であり、その影響を受けた人でした。
ですから日蓮と彼の著書からだけでは、当時の世相も仏教もけして分かりません。
彼自身、自分は諸宗の優劣に通じていると事々に述べていますし、実際に著作は数多くの経典や古典に触れ、その引用にあふれています。
しかし引用先の書物から日蓮の主張を見た時には、必ずしも彼の研鑽が十分とは言えないのも事実です。
金岡秀友氏は著作「高僧伝9―日蓮」(集英社)で、日蓮が晩年「清澄山大衆中」の中で真言宗の基本論釈である「弁顕密二教論」や「十住心論」などの借用を依頼している点に触れ、日蓮が空海の著作や思想に精通しないまま、真言批判を行っていた可能性を指摘しています。
実際、開目抄などを見ても引用はわずかに見られるものの、法華経や日蓮が論拠とした「摩訶止観」に対する「弁顕密二教論」の批判に、教理面に踏み込んだ詳しい反論は行っていません。
批判のための批判、そのための罵詈雑言では、仏教に造詣が深かった当時の為政者を折伏するのは難しかったでしょう。
これは、日蓮が怠け者の不勉強だったわけではありません。
むしろ彼は苦学した努力家でした。
今と違い、書物一冊読むにも徒歩で旅をし、つてを頼って寺々を回らなければならなかっただけです。
日蓮のように貧しく生まれた身には、それは大きなハンデです。
日蓮自身、自ら栴陀羅(インドのカースト制度における披差別階級。アウトカースト)の子を自称しています。
だからこそ彼は、彼からは恵まれた環境にいると見えた良観や宋からの帰化禅僧たちに、教義論争以上の激しい罵倒を加えたのだと思います。
日蓮が立正安国論を書いたのは、彼自身の解釈による間違った仏教がはびこっていると考えたからでしょう。
彼は、誤った宗教がはびこれば神仏の加護を失い、国が亡びると主張しました。
日蓮は、「こんなに広まったんだからこの教えは正しい」などとは、けして主張していません。
むしろどれだけ多くの人が信じ権力者や有名人が帰依しようと、それが間違った教えなら返ってその害は大きいと訴えました。
この点、心すべき人や組織はあると思います。他ならぬ、日蓮の後継者を名乗る方々の中に。
間違いを、信仰で真実に変えることは出来ない。これは、他ならぬ日蓮自身の主張でもあります。
もちろん現代にあっては、どんなにキテレツな信仰だろうと、思想信条の自由に基づき信じるのは自由です。
それを他の人にも信じさせようと集団で強制したり、嫌がって辞めようとする人を責めたりするのが、現代における本当の『間違った教え』でしょう。
そもそも日蓮だって、徒党を組んで幕府に押し掛けたりはしてません。
彼はいつも堂々と、独り己れの信仰に従って自説を述べています。
立正安国論において批判の主な矛先は法然の念仏ですが、日蓮は念仏が流行った事が様々な災難を引き起こしたと説いています。
現代から見ればバカバカしい主張ですが、実際偶然にも彼の解釈に沿った世相や事件が起きていましたから、日蓮がそう思い込むのも仕方ない面はあります。
それに人皇百代説の例が示すように、それらは当時の人なりに、現実を理解しようとした態度だったのかも知れません。
むしろ現代の私たちがノストラダムスの予言を気にしたり、2000年問題で大騒ぎしたのに比べれば、まだしも現実的であったと言えるでしょう。
ちなみに天皇は今上で百二十五代目、現代の私たちの例と同じく、日蓮らの時代のそれも、後から振り返れば杞憂であった訳ですが。
それに日蓮の主張は、予言の当たる当たらないに本質があるというよりも、(彼の考える)正しい仏教のあり方に還れという、信仰上のものでした。
しかしこの点、立正安国論を差し出された北条時頼の側から見れば、日蓮の主張は説得力に欠けていたのも事実だと思います。
そもそも、念仏を批判したのは日蓮が最初ではありません。
華厳宗中興の祖といわれる明恵上人高弁の「摧邪輪」、並榎の竪者と呼ばれた定照の「弾選択」、
そして日蓮登山当時の比叡山を代表する学僧で、日蓮教学に与えた多大な影響から、日蓮の師という伝説も生まれた俊範など様々です。
法然は温厚な人柄として知られていますが、同時にその独自の教学から、「信謗ともにつねのひとに越えたり(信じる者罵る者ともに大勢いた)」と評されました。
法然の「選択本願念仏集」は、それだけ当時の仏教的常識から見て、びっくりする内容だったわけです。
こうした研鑽と、幾度も信仰を禁止される弾圧の歴史を経て、万人を阿弥陀の慈悲の元に救おうとする浄土の教えは花開いたのです。
明恵上人高弁は、北条泰時が深く帰依した事でも知られています。
当然、北条政権の人たちは、法然の教学もそれに対する批判も、よく承知していたでしょう。
その上で、時頼の時代には多くの帰依者を獲得していました。
今更世の中が乱れたのは念仏のせいだと言われても、自身仏教に造詣の深かった時頼からは、
天台の教義に基づく念仏の批判者の一人という理解は得られたでしょうが、日蓮の望んだ帰依など得られるはずはなかったのです。
現実の政治に携わる時頼は、市井の仏教者である日蓮と違い、世の中が乱れるのには、神仏の計らいなどより細かで具体的な理由があると分かっていたのかも知れません。
さて、先に触れた日蓮の栴陀羅の子という自称ですが、後に日蓮自身はまったく意図しなかったであろう、困った事態を引き起こしています。
江戸時代、幕藩体制による支配のために作り出され、その後長きに渡って日本人を苦しめているものに、部落差別がありますが、
この部落差別と、栴陀羅思想や神道的浄不浄観が結び付き、日蓮と彼の宗派に対する攻撃に使われました。
江戸時代における差別観の代表とも言えるのが、当サイトの「聖教新聞について」で紹介している、明治以降の国家神道に多大な影響を与えた、平田篤胤です。
江戸時代には、朱子学による身分の固定化が図られ、仏教もそれに組み入れられています。
この事を、笠原一男氏の「近世往生伝の研究」から引用してみましょう。
>江戸時代になると、さらに積極的に仏事が修されるようになってきた。
>その基底になっていたのは、当時の政治権力者のつくりあげた封権倫理であった。
>すなわち幕藩権力は秩序の維持を目的に、朱子学を根幹として、君主にたいし臣下としての本分をまっとうする忠と、父母につかえる孝をおもてにだし、
>それは生前ばかりでなく、死後にも通じてつくさねばならないとした。
>死後における忠と孝が追善と報謝の回向であるというのである。
ここにある問題は、仏事それ自体の是非ではありません。
人間にとって避け得ない死と肉親縁者の別れに踏み込み、それをも利用して人の心を縛ったり、支配しようと試みる事です。
かけがえのない人間の死に、あれこれ理由をつけて組織肯定のために利用する態度は、いつの時代であれ批判されるべきものだと思います。
ともあれ、こうした身分制度の確立とそれから生まれた差別観に対し、
日蓮信徒側から、日蓮の出自を美化し祭り上げる事で対抗しようとする動きが生まれます。
それは次第にエスカレートし、ついには聖武天皇の子孫とまで言われるようになると、日蓮自身の国家を意識させる言動とあいまって、
『大国聖日蓮上人』『王道宣揚の聖者』といった、軍国主義的思想とも結び付いた狂信・熱狂へと発展していく事になります。
戸頃重基氏は、「日本思想体系十四 日蓮」でこう述べました。
>私は日蓮の生家の由緒来歴が何であったかを、史料のきわめてないまま想像をたくましくすることに一切の意義を認めない。
>それより法華経の行者日蓮が、あえて栴陀羅の子と自称して、法華経に見られる栴陀羅蔑視の観念を否定したことに、むしろ意義を認めたいのである。
日蓮自身の本意は、今となっては知るすべもありません。
しかし、彼の時代に存在しなかった江戸時代的な部落差別、それ自体がすでに許されざる悪なのに、
それを日蓮にまで遡って適用しようとするところに、罵詈雑言の決まり文句による、レッテル貼りの応酬の連鎖を見るような気がします。
相手を見下し、見下された方もカッとなって、目先の理論的矛盾を突き反論して、いつしかただの感情的なやりとりになる。
相手をバカにすれば自分もバカにされ、理論武装して強弁すれば相手もそうする。
行き着くところは歴史の証明を見るまでもなく、身近にいくらでも例が転がっています。
逆化折伏、つまり法華経を信じない者に信仰を強いたり、その為に罵詈雑言を用いたり、あえて相手を怒らせたり等と言うやり方は、以上の事からも所詮机上の空論です。
戦前は、天皇本尊論なるものさえありました。
何故、このようなものが生まれたのでしょう。
天皇を本尊と考えるなど、日蓮の思想をいくら曲解したとしても、生まれるはずのない解釈に思えます。
この事を考えるヒントは、先に示した江戸時代以降に確立した差別思想と、日蓮の思想に重要な位置を占める五重の相対にあります。
五重の相対とは、日蓮の述べた五種類の対比を通じて日蓮の仏法を解釈する事ですが、その五番目を巡って、日蓮系の各宗派で意見が異なります。
教観相対と種脱相対の、二つの解釈です
教観相対とは、簡単に言うなら教相(経典の文)と観心(文を通して示される心)を対比して観を選び、観心の行と日蓮が考えた題目の信仰へと集約させる事。
これに対して種脱相対では、下種と脱益という二つの対比が見られます。
まず、釈迦の教えによって次第に悟りへと導かれる利益を脱益と言い、その過程を稲などが種を下されて成熟し、収穫される様に喩えます。
末法の人々は、法華経以前の教え等による成熟の過程を経ていない為、成仏の結果だけを語る法華経の教えでは成仏できず、再び仏となる種を下す必要がある。
これを下種と呼び、日蓮の仏法を脱益のための教えと区別するのが、種脱相対です。
どちらも、日蓮の書いた開目抄の内容を説明した言葉に過ぎず、その説明の仕方のちょっとした違いが、何故議論を生むのでしょうか。
簡略仏教史で指摘した通り、確かに法華経には、成仏のための具体的な教えが説かれていません。
また法華経自体、一時に編纂されたものではなく、長い年月の間に複数の人の手を経て成立した経典の為、法華経内部にも内容に矛盾が見られます。
日蓮は、これを克服して釈迦直伝の教えと考えるために、先達と同じく様々な解釈を試みています。
法華経を前半後半に分け、迹門本門としたり、日蓮の解釈は法華経の文底の秘を見出だしたものだとする主張です。
この解釈の仕方の、先達との相違点が、日蓮仏法の個性と言えるでしょう。
しかし、その解釈の説明の一つである種脱相対は、やもすれば日蓮をして、新たなブッダとする主張を生みかねません。
いいえ、実際に生み出されました。
そして日蓮仏法の独自性を、釈迦の説いた仏教と区別し、平田篤胤らと同種の国粋主義と結び付けたのが、天皇本尊論です。
>釈尊を本仏とするのは脱益仏教であり、印度仏教である。
>わが日蓮聖人の下種仏教は、日本仏教で久遠の皇祖神の開顕して本仏とするのである。
下種法華神道を唱えた北田秀達氏が、昭和十七年に出版した「日蓮門下翼賛宗教の原則」からの引用です。
こういった狂信から生まれる権力志向の戦後版が、日蓮本仏論から池田本仏論への帰着であろうと、仲尾俊博著「宗教と部落差別」では指摘されています。
著書中の引用も含めて、いくつか挙げてみましょう。
>(雑誌記事より引用)
>「池田会長の引退は、宗門に対する謝罪の意思表示の意味合いもあると思います。」
>日蓮正宗の本山、大石寺の吉田義誠渉外部長はこう語る。
>「会長に帰命しようといったことを学会の幹部が口にする。これはまったくおかしい。
>帰命するのは本仏に対してで、本仏とは日蓮大聖人のことです。池田会長が本仏であるはずがない。
>このことは猊下(日達上人)が強く注意しております。その結果が、昨年十一月七日の会長以下二千人のお詫び登山でした。」…
>ところが今年になって二度も会長本仏論がとび出した。それも福島源次郎副会長の口からだ。
>「反省の色がないじゃないか。池田討つべし」の声が僧侶の間からわきおこる。(『週刊朝日』一九七九年五月十一日号)
>「日蓮本仏論」についても日蓮教団のなかでは異議があるのである。
>まして今現に生きている「池田本仏論」では、これは日蓮教義の逸脱といえよう。
>さらにこれについては『創価学会池田大作自滅の構造』(丸山照雄)のなかの「創価学会教学の五ケ条の基本的な間違い」の第四にでている。
>…大石寺との抗争において発火点となっているのは、「池田大作本仏論」である。
>「日蓮本仏論」の必然的な帰着が「池田大作本仏論」であると言えるのであって…批判するためには、「日蓮本仏論」をいさぎよく否定することからはじめるべきであろう。
>最近の創価学会は…池田大作の教祖化が進行していたのである。
>…『人間革命』などという綴り方のような作文を『御書』である、すなわち日蓮遺文と同じ価値があるものと宣伝したことも、大石寺にとっては許せないことであった。(『創価学会池田大作自滅の構造』八十五頁)
>…教団内の権力闘争的なものが表面化されている。このような論議は「天皇本尊論」の戦後版ともいえるのである。
ところで浅見定雄氏は、著書「なぜカルト宗教は生まれるのか」の中で、キリスト教系カルトの多くに当てはまる特徴として、
キリスト教でありながらキリストそのひとのみの教えでは不十分と主張している事を挙げています。
>その一つの基準は、「カルト」と私たちが呼ばざるをえない宗教は、イエス・キリストだけでは救いが十分だと言わないということです。…
>イエス・キリスト以外に、自分たちの宗派の教祖に新しい啓示があったと言います。…
>具体的に言うと、統一教会は文鮮明に啓示が新しく下った。それが『原理講論』に書いてあると主張する。
>モルモン教はスミスさん、あの人が翻訳機で新しい神の啓示を解いたと。
>それからエホバの証人では、神がラッセルさんに、世の終わりについて新しい啓示を与えたと、そういうことを言います。
>…カルトは必ず聖書のほかに『原理講論』とか、聖書のほかに『モルモン経』とか、聖書のほかにラッセルさんの言葉とかを、その教団の規則で聖書と同等とする傾向があります。
>キリストの上に自分たちの教祖を載せる、聖書の上に自分たちの教祖の言葉を載せる、というのがカルトに共通している点ではないかと思います。
こうした傾向は、同じキリスト教であっても、自分たちの教祖の教えに従わなければ救われないのだ、という偏狭さに繋がります。
自分たちの組織に属する事だけが『真の』キリスト教徒たる道で、ほかはダメだと。
この例に、日蓮系のそれも当てはまるかどうか、その判断は各々に委ねたいと思います。
日蓮の仏典への強引な解釈は、たしかに矛盾を孕み、その教えを一見難解に見せています。
が、その原因となった根本は、全ての仏典が釈迦の直説であると言う、今日では否定された当時の仏教学の建前と、
末法にあっても、全ての人を救うのが『最勝』――即ち最も勝れた仏教だと言う確信ではなかったでしょうか。
日蓮にとって真実の教えとは、やはり万人が救われる実行可能なものでなくてはならなかった。
何故ならその点こそ、彼が最初の法敵と思い定めた知の巨人、法然房源空が突いた当時の伝統仏教の急所だからです。
だからこそ、万人の成仏を説く二箇の諫暁や二乗作仏にこだわり、題目という易行にこだわり、凡夫のなかに一念三千を見る事にこだわったのでしょう。
一念三千とは天台の重要な教義で、まず華厳経に語られる地獄界から仏界までの十界が、さらに各々十界を具え、
それに法華経の十如の理を具す事から10×10×10で千如となり、その各々が衆生・国土・五隠の三世間で働きます。
これを三千世界と言い、凡夫の起こす一念の心にその諸法すべてがそなわっているという考えです。
簡単に解説するなら、人の場合怒る時は地獄、貪る時は修羅、邪まな心をもつ時は畜生、他人にへつらい心が屈折する時は修羅…といった具合です。
動物、つまり畜生でも妻子を愛する時は菩薩界を具え、このように過ぎ去り変化する一瞬の心の内に三千の諸法を見る。
日蓮は涅槃経の例を引き、子に注ぐ母の無償の愛情に一念三千を見ています。
それは幼くして修行のため父母の元を離れた、日蓮自身の追慕だったのかも知れません。
題目の論拠に、日蓮は開目抄で、善無畏の示した法華経真言を挙げています。
真言宗では、この真言を唱えれば法華経全体を読誦したのに等しいとされており、日蓮はこの例を引いて「南無妙法蓮華経これなり」と題目を説明しています。
一片の簡潔な言葉が、経典全ての功徳を代表する点で、日蓮の言う通り同種の考えと言えるでしょう。
法然の称名念仏はこれとは異なります。
この点を親鸞も説明しており、その徹底した内省の執拗さから、
彼自身にとっては甚だ不本意でしょうが、今日親鸞を師法然以上に哲学的に評価する人もいます。
法然はまた、祈って病気が治り寿命が延びるなら、この世に死ぬ人などいないだろうと言いました。
もし法然に鎮護国家の法を問えば、「祈るによりて国家安穏になることあらば、いづこに乱れ滅びる国家あらん」と答えるのではないかと、梶村昇氏は「法然のことば」で述べています。
日蓮はこれとは異なり、祈祷の効果があらわれないのは、それが正しい仏法ではないからだと説きました。
言うなれば、現実に則した形で万人が救われる道を模索したのが法然、
あくまで正しい仏教にこだわり、その救いの道を万人に当てはめようとしたのが日蓮でしょう。
あくまで現実を見据え、そこから仏教を捉えようとした法然の態度は、先に示した通り仏教界からの反発を招きました。
その有力な批判者であり、高潔無私な人柄と行動で、当初敵方の立場であった北条泰時さえ心服させた明恵上人高弁は、
法然を批判する一方で、中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」、その左右に菩提心の四つの異名を書き入れた三宝礼の名号本尊をつくり、
在家の人びとは「南無三宝後生たすけさせ給へ」と唱え、三宝に供養すればよいとして、万人を救うための実践の簡易化をはかっています。
恐らくは当時の人から見ても、矛盾する各経典が必ずしも釈迦の直説ばかりでない事は、薄々察せられていたのかも知れません。
こうした風潮に反発を感じ、あくまで釈尊に――さらにその経典に還り、そこから現実を見ようとしたのが日蓮でしょう。
その信仰は、当時の仏教界の、様々なうねりの一つと位置づけられると思います。
万人を救う手段に最勝を求める事に、実は矛盾があります。
当時の立宗の手続き上も、教相判釈を通じて自宗の教理的立場を明らかにする事は不可欠だったのですが、
にも関わらず法然はそれを『選択』と名付けて、可能な限り相対的評価という手法を取っています。
今日大乗仏教には、大乗非仏説という批判があります。
釈尊の死後、はるか経ってから成立した諸経典に基づく大乗仏教は、仏教ではないという考え方で、むろん法華経もこれに含まれます。
明治時代に、日本人が西欧の実証的研究に出会った事から、盛んになった考えです。
その西欧の仏教研究は、その植民地政策から始めイギリスにおいて、次いでドイツ・フランスへと広がり、
最後発のロシアにおいて、有名な「仏教文庫」へと結実していく事になります。
釈尊の直説を、宗教的性格に乏しい哲学と見なして原始仏教と呼び、密教などを堕落した教えと捉えがちな見方は、ここに携わったベルギーの仏教学者プサンに代表される考えのようです。
時は19世紀、西欧の人々は、キリスト教的絶対者への信仰に飽いて、当時花開いた科学的合理主義を満たす思考を求めていました。
彼らは、新たに出会った東洋の知恵にそれを見い出したと思うあまり、釈迦の思想から非合理的な全ての要素を省いた、純粋な哲学としての原始仏教という虚像を作り上げたのではないか?――今日ではこのように批判して、密教への再評価を行う向きがあります。
しかし、科学万能という時代が、原始仏教という虚像を見い出したのなら、科学の発展にかげりを見た私たちが、非合理な信仰に救いを求めたのではないと誰が言えるでしょうか?
やれ密教はダメだの念仏はよくないの法華経はでたらめだのといった、最勝を論じる姿勢こそ、時代によって変遷する幻です。
明治時代の人々は、富国強兵で西欧に追い付け追い越せの真っ最中。その西欧において仏教が詳細に研究されていた事が、やはり大きかったのだと思います。
鎌倉時代の人々が、末法観というフィルターを通して仏教を読み解いたのと、何ら変わりありません。
誤解のないように申し添えますが、大乗非仏説もそれへの反論も、法華経の全肯定や全否定に繋がるものではありません。
仏教全体を見渡した俯瞰的評価は時代によって移ろいますが、簡略仏教史で示した通り、釈迦の教えの根底に人間愛と万人の平等があった事は明らかです。
ですから、初期の仏典に釈迦の発言として女性蔑視の発言があっても、それが後世の創作である事が推察出来るように
――そもそも釈迦の発言であろうとなかろうと間違いは間違いなのですが――
法華経の記述も、差別や仏罰など偏狭な姿勢、三車火宅・良医の喩えのような詭弁は、釈尊に背く間違いで、万人の成仏を説こうとした様々な表現は、釈尊の教えに還ろうとした内容でしょう。
かつて親鸞は、教えに迷い自分を頼ってきた人たちに、「念仏の教えを信じるのも捨てるのも、それぞれが考えて決める事だ」と諭しました。
まずは自分自身の選択があり、その後にその教えを自己にとっての救いだと信じるのであって、他者に押し付けるのは甚だ傲慢です。
まして誰かによって選ばされ、さらに別な誰かにも選ばせろと強いられるならば、それは社会にとっての迷惑です。
『万人を救う』という事と『他者を排撃する』という矛盾。
それは何が一番かを競い、尚且つそれを万人に当てはめようとしたところに、不幸があったのだと思います。
勝ち負けと平等は、やはり矛盾するのです。
万人を救うには、無宗教を含めて万教を尊重するしかない。
今日の宗教が研鑽を経てたどり着いた、当たり前の事実であり結論です。
しかし、それでも身近な人々への愛情から、万人が救われて欲しいと願う。
日蓮が、罵詈雑言で他宗やその高僧たちを罵り、僧としての名誉を求めて苦学し、最勝を求めて研鑽を重ねて、
批判や迫害にさらされながらも、尚捨てられなかったその慈愛こそ、
彼自身ついにそれと気付く事のなかった、本当の『末法の下種』ではないでしょうか?
それをあっさりと捨て、未だに罵詈雑言に明け暮れ他を見下して、仏罰への畏れを他者への慈悲だと言い訳し、
組織の肯定やらその内部の是非にのみ心を囚われて、恋人や伴侶を自身の偏狭な価値観に組み入れる事にさえ喜びを感じる人たちに、
日蓮の末徒を名乗る資格はないと思います。
一度そのような組織の活動から離れて、自身の信仰を見つめ直す事こそ、大切でしょう。
最後にひとつ。
縁があって一緒にいる事も、また離れる事もあると言うのに、他の師の元では救われない等と脅かすのは、阿弥陀如来から与えられたはずの信心を、我がもの顔で取り返そうとでも言うのだろうか――親鸞は教えを説く者同士の争いを戒めるのに、こんな事を言っています。
これを日蓮の教えに例えるなら、法華経文底に秘された釈迦如来からのありがたい下種を、己の功名と錯覚して、我がもの顔で取り戻そうと…いや、よもや日蓮の末徒を名乗る方々に、このような謗法の罪を犯す人たちはいないでしょうから、この心配は蛇足でしょうね。
万一、このような謗法の罪を犯して、自分達から離れようとする人を脅す例をご存じの方がいらしたら、ぜひBBSまでご報告をお願いします。
…意外によく見掛ける気がするのは、たぶん気のせいですよね。
戻る